ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」
2026/06/28
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までに投稿してきた記事を未読の方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
・ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
・ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」
さて、この連載記事も回を重ね
13回目となったんですが、
6/24から「〝源(みなもと)〟とは何か?」
というテーマで書きはじめ、
今日が5回目となりました。
〝ザ・メンタルモデル〟そのものについて
解説されている情報については、
毎回冒頭に挙げている由佐さんの著書2冊を始め
関連する著作や、
ネット上にもわかりやすい動画等の
コンテンツが少なからずありますので、
関心のある方はそちらをアクセスして下さい。
さて、昨日投稿した(その12)の記事では、
(その11)の記事で触れた
クリシュナムルティの『既知からの自由』を
すこしおさらいした上で、
メインコンテンツとして紹介したのは、
臨床心理士、カウンセラーの宇田亮一さんが
2017年に出版された
から第1部第2章の【1】
「初源ということ(吉本本質論)」の冒頭部です。
「〝源〟とは何か?」という問いについて考える上で
わたしの知る限りにおいてではありますが、
吉本隆明さんほど徹底していた人はいません。

昨日の記事で引用した箇所
「初源ということ(吉本本質論)」は、
吉本さんの思想の〝源〟が
結局のところどこにあるのかに
言及されていたので
その徹底ぶりを
少しでも感じて戴けたらと考えご紹介した次第。
たとえば、2/10から5/20まで
この寺子屋塾ブログでは、
100回にわたって投稿しました。
記事中、直接吉本さんの名に触れることも
少なくありませんでしたし、
とくに(その60)や(その77)では、
ドラマ『逃げ恥』を『共同幻想論』で
リフレーミングしながら観ることも行いました。
また、吉本さんから学んでいなければ、
ひとつひとつのシーンに対して
あのような多様な視点からのコメントを
書くことはできなかったようにおもいます。
また、2/9に投稿した
も、逃げ恥の名セリフ&名場面集を100記事投稿する
前段にあたる内容になっているばかりか、
わたしが自分自身の〝源〟を意識したことで
書けた記事でもありました。
吉本思想の〝源〟はどこにあるのか?
という問いを考えながら
ここ10年ほど
吉本さんの書物を読み込んできましたが、
引用した宇田さんの文章の終わりの方に
次のような箇所がありました。
吉本さんの〝初源〟へのこだわりが、時間と空間がどのように分離するかを見極めるためにあるということです。そこを見極めて生み出された概念が『言語にとって美とはなにか』の自己表出、指示表出、『共同幻想論』の個人幻想、対幻想、共同幻想、『心的現象論』の原生的疎外、純粋疎外という概念なのです。
吉本さんの思想の土台が、
戦争体験、日本の敗戦にあることは
宇田さんの解説本でも
繰り返し触れられていますが、
「敗戦直後、全ての蔵書を古本屋に売り払い、
その資金で『国訳大蔵経』や
岩波文庫の古典を購入し読み耽っていた」
というエピソードはとりわけ象徴的です。
皇国青年だった吉本さんにとって
日本が戦争に負けたのは、
自身のアイデンティティが
すべてたたき壊されるような体験であったため、
古い思想や価値観を一度リセットし
仏教や古典といった根源的な思想を
ゼロから徹底的に読み込もうとされたのでしょう。
『共同幻想論』で主に参照しているテキストは、
「古事記」と「遠野物語」なんですが、
わたしはいわゆる3つの幻想領域
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」という
捉え方のフレームには、
〝仏教〟の影響を色濃く感じるんですね。
わたしの書いているブログを
しっかり読み込んで下さっている方なら、
昨日の記事の宇田さんの
「両方を手放さない」という言い回しに触れた際、
5/29に投稿した次の記事
を想い出されたのではないかと。
とくに次の箇所です。
釈迦は論理と非論理の両方を全面的に打ち出してる人だから、論理だけの中観派では足りない。仏教学者が論文を書いてても、「お前、坐禅したことあんのかよ」で終わりだし、逆に坐禅だけして「悟った」って言われても「勉強したの?」とも言いたくなる。両方必要なんだよ。
そうです!
「論理」と「非論理」の両方が必要!なんです。
論理=科学(測定可能なもの)→実証
非論理=思想(測定不可能なもの)→初源
たとえば、いわゆる右翼と左翼という
政治的立場についても、
吉本さんは、「どちらが正しいかのか?」
「自分はどちらに近いか?」と問うのでなく
その両方を手放さずに
「この対立構造はどこからやってくるのか?」
「どういう回路を用いれば
この対立構図から抜け出せるのか?」
を問うわけです。
このスタンスがとても仏教的だと感じるんですね。
さて、昨日のふりかえりと前置きが
ずいぶん長くなってしまいましたね。
今日の本題であり、メインコンテンツは、
由佐さんの〝ザ・メンタルモデル〟四分類と
吉本さんの三つの幻想領域
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」と
交差させたところに何が見えるかという考察です。
由佐さんの〝ザ・メンタルモデル〟では、
人間の根底にある痛みのパターンとして、
次の4つの類型が示されています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
① 価値なしモデル
「私には価値がない」
② 愛なしモデル
「私は愛されない」
③ ひとりぼっちモデル
「私は所詮ひとりぼっちだ」
④ 欠陥欠損モデル
「私には何かが決定的に欠けている」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、これら4つのメンタルモデルは、
空間座標として展開すると、上の図にあるように
横軸が 自分 ⇔ 他者
縦軸が 全体性 ⇔ 関係性
という形で整理されています。
わたしがこの図を見ていて、
ふとおもい出したのが、
吉本隆明さんの『共同幻想論』に出てくる
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
3つの幻想領域だったのです。
次図は宇田亮一さんの解説書から拝借しました。

吉本隆明さんの『共同幻想論』は、
簡単に言ってしまえば、
人間の関係意識や意味世界が、
どのような層で成り立っているのかについて
考察している書物であると。
個人幻想とは、個人の内面、自己意識、身体感覚、
私的な世界のこと。
対幻想とは、男女、親子、夫婦、恋人、
一対一の親密な関係のこと。
共同幻想とは、国家、社会、制度、宗教、規範など、
集団が共有している意味世界のこと。
…と、こんな風に整理してみると、
〝ザ・メンタルモデル〟の四類型と、
吉本隆明さんの3つの幻想領域とは、
かなり深いところでつながっているように
わたしには感じられた次第。
メンタルモデルの座標では、
横軸が「自分 ⇔ 他者」です。
これは、吉本隆明さんの言葉で言えば、
自分の内面である「個人幻想」から、
他者との関係である「対幻想」へと開かれていく軸と
見ることができるんじゃないかと。
また、縦軸は「全体性 ⇔ 関係性」です。
これは、一対一の関係性としての「対幻想」と、
より大きな社会・共同体・世界としての
「共同幻想」との間を
行き来する軸として見ることができます。
つまり〝ザ・メンタルモデル〟四類型を示す座標は、
吉本隆明さんの
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
という三幻想領域を、
心理的・体験的な空間図として
展開したもののようにも読めるのではないかと。
もちろん、両者をそのまま
同一視しているわけではありません。
由佐美加子さんの〝ザ・メンタルモデル〟は、
個人の内側に形成された
「世界の見え方」「生存戦略」「痛みの回避パターン」
を扱っています。
それに対して、
吉本隆明さんの『共同幻想論』は、
人間存在がどのような意味世界の層の中で
成立しているのかを扱っています。
つまり、〝ザ・メンタルモデル〟は
心理・内面・癒し・自己理解のモデルであり、
『共同幻想論』は
思想・社会・共同体・制度のモデルと
言ってよいかもしれません。
しかし、見ている対象は違っていても、
そこに現れている構造は、
かなり重なっているように感じました。
ザ・メンタルモデル四類型を、
吉本隆明さんの3つの幻想領域に重ねてみると、
次のように整理できるかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
価値なしモデル
→ 個人幻想の傷
愛なしモデル
→ 対幻想の傷
ひとりぼっちモデル
→ 共同幻想、あるいは全体性から切断された傷
欠陥欠損モデル
→ 個人幻想と共同幻想の接点にある傷
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、ひとつずつ見ていきましょう。
まず、「価値なしモデル」です。
価値なしモデルの根底には、「私には価値がない」
という痛みがあります。
これは、まず第一に、
個人幻想の領域の傷と見ることができそうです。
自分という存在そのものに価値が感じられない。
だから、成果を出すこと、
人から認められること、役に立つこと、
できる人間であることによって、
自分の存在価値を補おうとする。
これは、吉本隆明さんの言葉で言えば、
個人幻想の内部で、
「わたしはわたしとして存在してよい」
という根拠が揺らいでいる状態に
近いのではないか。
もちろん、実際には、
他者からの承認によって
自己価値を得ようとするので、
対幻想や共同幻想にもつながっていきます。
しかし、その出発点にあるのは、
「わたしには価値がない」という
個人幻想の傷ではないかとおもうのです。
次に、「愛なしモデル」です。
愛なしモデルの根底には、
「私は愛されない」という痛みがあるので、
これは、かなり直接的に、
対幻想の傷と見ることができそうです。
一対一の親密な関係において、
「本当の自分では愛されない」
「与えなければ関係が保てない」
「相手を不快にさせてはいけない」
「相手の期待に応えなければならない」
という構えが生まれる。
これはまさに、
「わたしとあなた」の関係における存在不安です。
吉本隆明さんの3つの幻想領域で言えば、
愛なしモデルは、
もっとも対幻想と対応しやすいモデルと
言えるのではないでしょうか。
次に、「ひとりぼっちモデル」です。
ひとりぼっちモデルの根底には、
「わたしは所詮ひとりぼっちだ」
という痛みがあります。
これは一見すると、
個人幻想の孤立のようにも見えます。
しかし、〝ザ・メンタルモデル〟において、
ひとりぼっちモデルが目指す世界は、
「すべてとつながっているワンネス」です。
つまり、ここで問題になっているのは、
単なる一対一の愛の問題ではありません。
「世界とつながっている感じ」
「生命全体の一部である感じ」
「大きな全体に含まれている感じ」
そうした感覚が失われているところに、
ひとりぼっちモデルの
痛みがあるようにおもいます。
この意味では、ひとりぼっちモデルは、
共同幻想の深層、
あるいは共同幻想以前の
「全体性との接続」の傷として
見ることができそうです。
ただし、ここには注意も必要で、
吉本隆明さんの言う「共同幻想」は、
国家、社会、共同体、制度、宗教、規範など、
人々が共有している意味世界のことです。
それに対して、
由佐美加子さんの「ワンネス」は、
制度的な共同体というより、
もっと生命的・存在論的な全体性に近いものです。
ですから、吉本さんの共同幻想は
社会的に共有された幻想領域のことで、
由佐さんの全体性とは、
存在的・生命的なつながりという違いは、
きちんと区別しておいた方がよいと思います。
最後に、「欠陥欠損モデル」です。
欠陥欠損モデルの根底には、
「わたしには何かが決定的に欠けている」
という痛みがあって、これは少し複雑です。
欠陥欠損モデルには、
「自分はそのままでは場にいてはいけない」
「ちゃんとしていないと安心できない」
「自分にはどこか壊れているところがある」
「自分には何かが決定的に足りない」
という感覚があります。
これは、たしかに個人幻想の傷なんですが、
しかし、それだけではありません。
同時に、
「この場にそのままの自分としていてよいのか」
「この世界にありのままの自分として
存在してよいのか」
という問いでもあります。
つまり、欠陥欠損モデルは、
個人幻想と共同幻想の接点で起きている
傷のようにも見えます。
「わたしはわたしとして欠けている」
という痛みであると同時に、
「この世界、この場、この全体の中に、
そのままのわたしとして存在してよいのか」
という痛みでもある。
四類型の図で、欠陥欠損モデルが
「自分 × 全体性」の側に置かれているのは、
とても象徴的だと思います。
このように整理してみると、
〝ザ・メンタルモデル〟四類型は、
吉本隆明さんの
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
という3つの幻想領域のうち、
どの接点で存在不安が刻まれたかを示す
心理的な類型として
読むことができるようにおもうのです。
ここまでを整理すると、次のようになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
①価値なしモデル
主な傷の領域:個人幻想
回復テーマ:自分の存在価値を自分で承認する
②愛なしモデル
主な傷の領域:対幻想
回復テーマ:条件付きでない愛と関係性
③ひとりぼっちモデル
主な傷の領域:共同幻想/全体性
回復テーマ:世界・生命・全体とのつながり
④欠陥欠損モデル
主な傷の領域:個人幻想と共同幻想の接点
回復テーマ:そのままで場にいてよい安心
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こうしてみると、両者には
かなり美しい対応関係が見えてきますね。
ただし、何度も言うように、
この両者は同じものではありません。
由佐美加子さんの〝ザ・メンタルモデル〟は、
あくまでも
「わたしは世界をどんな前提で見ているのか」
「その前提によって、どんな反応をしているのか」
「どんな痛みを避けるために、
どんな生存戦略を取っているのか」
という、主観の痛みから入っていくモデル。
一方、吉本隆明さんの『共同幻想論』は、
「人間の意識や意味世界は、
どのような層で成り立っているのか」
「国家・共同体・家族・性・個人意識は、
どう関係しているのか」という、
人間存在の構造から入っていく思想。
ですから、
吉本隆明さんは、幻想の構造を論じていて、
由佐美加子さんは、幻想の中で
傷ついた人間の体験や回復を論じていると
そう言うこともできるかもしれません。
わたしには、この2つは
「同じ人間存在の構造を、思想の側から見るか、
心理・癒しの側から見るか」
の違いのようにも感じられました。
吉本さんの『共同幻想論』を読むと、
人間は、個人としてだけ存在しているのではなく、
一対一の関係や、
社会・共同体・国家といった
大きな意味世界の中で生きている
多層的な存在であることが見えてきます。
一方、由佐さんの〝ザ・メンタルモデル〟を読むと、
そうした意味世界の中で、
一人ひとりの内側にどのような痛みが刻まれ、
それによってどのような生存戦略が
生まれてくるのかが見えてきます。
つまり、『共同幻想論』は、
人間が生きる意味世界の地図であり、
〝ザ・メンタルモデル〟は、
その意味世界の中で傷つき、
それでも本来の自分に還ろうとする人間の地図、
とそんなふうにも言えるのではないかと。
〝ザ・メンタルモデル〟について考えていくと、
単なる心理分析やタイプ分けにとどまらず、
人間とは何か?
関係とは何か?
共同体とは何か?
そして、世界とつながって生きるとは
結局のところどういうことなのか?
という問いにまで広がっていきます。
こうした意味において、
由佐美加子さんの〝ザ・メンタルモデル〟は、
吉本隆明さんの『共同幻想論』とも響き合う、
とても射程の広い考え方であり、
そして、
この2つをこんな風に重ね合わせることで、
〝ザ・メンタルモデル〟四類型が、
単なる「性格分類」でなく、
人間存在そのものの
深い構造に関わるものとして
見えてくるのではないでしょうか。
〝ザ・メンタルモデル〟への理解を深めることは、
単に自分自身の内面を知ることにとどまらず、
自分と他者、
自分と共同体、
自分と世界との関係を問い直すことにも
つながるようにわたしには感じられたんですが、
いかがでしょうか。
この続きはまた明日に!(^^)/

