ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」
2026/07/02
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までに投稿してきた記事を未読の方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
・ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
・ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」
・ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」
・ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」
・ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」
・ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」
さて、この連載記事も回を重ね17回となっています。
(その15)の記事からは、
自分の内面を紐解くザ・メンタルモデルと
〝経営〟とのつながりを考察し始めました。
(その15)と(その16)で紹介したのは、
出版された直後の2021.12.14に
手放し経営ラボの主催で
由佐美加子さんをゲストに行われた
トークライブ
自分を「観る」と、生き方が変わる。経営が変わる。
〜由佐美加子の全てが詰まった集大成をひもとく!
のダイジェスト①&②だったんですが、
今日はそれに対してのわたしのコメントを。
冒頭に、ザ・メンタルモデルと〝経営〟との
つながりを考察し始めたと書きました。
由佐さんのトークライブを聞いて強く感じたことは、
単に「自己理解が大事だ」とか、
「自分の感情を大切にしましょう」とか、
「ありのままの自分を受け入れましょう」という
表層のメッセージにとどまらない、
もっと本質的な深層の部分に
切り込んでいるということです。
「経営者が自分を見ないで、
なんで経営できるかがわかんないって言いたい」
と、手厳しいコトバもあったんですが、
経営というのは、あくまでひとつの入口であり、
由佐さんが語られているお話の中味は、
経営という範囲を超えた
もっと大きな普遍的なテーマに
通ずるもののように感じています。
つまり、人間の感情や思考、行動の奥には、
人間の体験というものが
どのように成立しているのかという
〝構造〟が存在していて、
由佐さんの「ザ・メンタルモデル」は、
まさにこのことをテーマにしているんですね。
とりもなおさず、それは
わたしたちが「現実」と呼んでいるものが、
そもそもどのように成立しているのか
という前提を含んだ
かなり根源的な〝問い〟にも
深く関わるものと言ってよいでしょう。
たとえば、わたしたちは何か出来事が起きると、
その出来事に対して
自分が反応しているとおもっています。
あの人に嫌なことを言われた。
→だから腹が立った。
思い通りにいかなかった。
→だから落ち込んだ。
認めてもらえなかった。
→だから傷ついた。
こんな風に人は、外側の出来事が先にあり、
その出来事に対して
自分の感情や反応が起きている、と考えがちです。
でも、由佐さんの話を聞いていると、
いやいや、実はそんな単純なことじゃなくて、
もっと細かく見る必要があるように
感じられてきました。
わたしたちの「感情」や「反応」が起きる前に
すでにひとつの現象が
内側で成立しているのではないか、と。
つまり、腹が立つ前に、すでに
「これは自分を軽んじられた出来事だ」
という現象が成立している。
落ち込む前に、すでに
「自分には価値がないことを示す出来事だ」
という現象が成立している。
傷つく前に、すでに
「自分は受け入れられていない」
という世界の見え方が成立している。
反応は、そのあとに出てくるものなんですね。
だから、本当に見るべきなのは、
反応そのものでなく、反応が起きるよりも〝前〟に
内側で何が成立しているのか、
前提としてどのように自分が世界を捉えているのか
ということなのだとおもいます。
では、その現象はどこで成立しているのか?
ここで重要になるのが「認知」です。
由佐さんが「気づきの根幹は認知にある」と
語られていたことは、
とても大きな意味を含んでいるようにおもいます。
この「認知」とは、単になにかを知るとか
理解するということではありません。
外側の出来事を、どの方向から見ているのか、
何を前提にして受け取っているのか、
どこに光を当て、
どこを見ないことにしているのか、
そうした〝方向性〟を含んだ働きのことです。
6/15に「今日の名言シリーズ」で
紹介する記事を投稿しましたが、
どう行動するかを問うよりも前に
自分のその行動の〝起点〟に何があるかを
意識することが大切なんですね。
同じ言葉を聞いても、人によって反応が違うのは、
感じ方が違うからだけではありません。
その言葉を受け取る
〝認知の方向性〟が違うからです。
たとえば、「注意された」という出来事を、
「否定された」と見る人もいれば、
「期待されている」と解釈する人もいるでしょう。
「放っておかれた」という出来事を、
「見捨てられた」と受け取る人もいれば、
「任されている」と見る人もいる。
つまり、出来事そのものが人を苦しめているのでなく、
その出来事に向かう〝認知の方向性〟が、
世界の見え方を決めているわけなので。
ここに、由佐さんの言われる
「内側の世界が外側の世界をつくりだす」
という言葉の核心があるようにおもいました。
そして、このとき言葉は、
単なる意味の伝達媒体ではありません。
「嫌いな人」「ダメな自分」「ありのまま」
「受け入れる」「感じる」「内側を見る」
———このような言葉は、
辞書的な意味を持っているだけでなく、
わたしたちの意識の向きを変えてしまう
〝作用〟を持っているんですね。
たとえば、「嫌いな人」という言葉は、
普通に使えば、相手を外側に固定する言葉です。
「あの人が嫌いだ」
「この人とは合わない」
「できれば関わりたくない」
この言葉の作用は、意識を相手に向け、
自分の外側に原因を置く方向へ働きます。
ところが、由佐さんのワークブックでは、
「嫌いな人」が、
自分の内側を見る入口になります。
「この人の何が嫌なのか?」
「その嫌さは、自分の中の何に触れているのか?」
「自分は何を切り離しているのか?」
つまり、同じ「嫌いな人」という言葉であっても、
受け止める人の受け止め方次第で
その作用が変わり得るのです。
「嫌いな人」が、外側を裁く言葉から、
内側を観るための〝レンズ〟へと変わる、
ここが非常に重要だと思います。
つまり、いつも書いていることなんですが、
言葉は意味を解釈しようとするのでなく、
「作用」として見る必要があるし、
そして、その「作用」がどのように働くのか
そのカギを握っているのは
他でもない、自分自身なんだと。
その言葉の受け止め方次第で、
意識をどちらへ向けるのか、
外側へ固定するのか、内側へ開くのか、
あるいはその両方なのか、
分離を強めるのか、統合へ向かわせるのかを
決定するんだと。
そして、この作用の違いこそが、
学びの質を大きく変えていくのだとおもいます。
さらに言えば、わたしたちの体験は
けっして一枚岩のものでなく、
表層・中層・深層という階層構造で成立しています。
たとえば、1枚のプリントを学習することにも
自分がその1まいのプリントと
どう向き合っているかというスタンスや
その〝起点〟に何があるかで、
体験で得られることも大きく変わってきます。
表層には、出来事があります。
「誰かに何かを言われた」「予定が狂った」
「思うような結果が出なかった」
「人間関係がうまくいかない」など。
中層には、その出来事に対する
感情や反応があります。
「腹が立つ」「悲しい」「怖い」「不安になる」
「逃げたくなる」「何とか変えたくなる」など。
そして深層には、
「自分は認められなければ価値がない」
「失敗してはいけない」「嫌われてはいけない」
「ちゃんとしていなければならない」
「弱い自分は見せてはいけない」といったような
その反応を生み出している
認知の方向性や信念が存在しているわけで。
多くの場合、わたしたちは
表層と中層の間を行ったり来たりしています。
出来事を変えようとするか、感情を抑えようとするか、
相手を変えようとするか、自分を責めるか、
克服するか、逃避するか……
でも、由佐さんが言われているのは、
おそらくそういうことではないのだと。
表層の出来事を変えようとする前に、
中層の反応を処理しようとする前に、
深層でどのような認知が働いているのかを観る。
それがまさに〝意識〟のはたらきであり、
〝ザ・メンタルモデル〟は
そのような捉え方のガイドであり、
ツールの役割を果たしてくれるものなんですね。
結局、行動や気づきが
表層と中層のレベルで終始しているのであれば、
どんなに努力し頑張ったところで限界があって、
すぐ前の状態に逆戻りしてしまったり、
不本意な成果しか出せなかったりします。
でも、深層レベルで気づきが起きたとき、
それによって生まれる変化は
努力や抵抗次元のものでなく、
構造そのものの組み替えとして起こり始めるので、
一旦気づくともう
気づく前の状態には逆戻りしないんですね。
わたしも寺子屋塾を始めて30年以上になるので、
塾の生徒さんだけでも
500名を超える人たちと関わってきましたし、
わたしがファシリテートする
講座や研修などに参加された方々まで含めると、
数え切れないくらいの人と出会ってきました。
同じように学んでいるのに、
どんどん成長して自分を変えて行ける人と、
ひとつの状態からなかなか抜け出せず、
同じことをずっと繰り返している人がいるのは、
「何故だろう?」「どこが違うんだろう?」
という問いが
わたしの中にはずっとありましたが、
その、なかなか変わらない人たちも、
けっして、
努力が足りないとか、信じる力が弱いとか
そういうことではないんですね。
言語化するのがとても難しいのですが、
(それだから教室という場を開いているんですが)
結局、外側の世界に振り回されることなく、
自分の内側を観る解像度を上げる鍛錬を
日常でできているかどうか。
言い換えると、
人間の大脳思考の優位性に自覚的でありつつ、
体験の〝階層〟を意識しながら、
感じる力、身体感覚を鍛錬する習慣が
〝日常的〟に持てているかどうかが
カギを握っているのではないかと。
そういう意味でも、由佐さんの語られている
「自分の内側を観る」ということは、
単にひとつの状態を表すのでないのは
もちろんのこと、
「自分はこういう人間だと分かりました」
という固定された理解のことを
言われているのでもないのでしょう。
ですから、〝ザ・メンタルモデル〟は
単なる自己分析などではないし、
自分に何かのラベルを貼ることでもなく、
ましてや、反応の原因を探して
過去を掘り返したり
反省したりすることでもありません。
わたしなりの勝手な解釈でしかありませんが、
今この瞬間に、自分の内側で何が起き、
どの方向に認知が向かい、
どの言葉がどんな作用を生み、
どの階層で体験が成立しているのかを
常に観ている〝働き〟のことを言われているのだと。
それは、現象が成立する前後の〝構造〟を観て、
認知の方向性や言葉の作用、
そして、体験の〝階層〟を意識することなんだと。
さらには、そうした観察を積み重ねていくことで、
自分の世界のつくり方そのものに対しても
意識が及んで変化していくのでしょう。
このように考えゆくと、
「内側の世界が外側の世界をつくりだす」という
由佐さんの言葉は、
単純な精神論を言っているわけではないんですね。
「人は知識や情報によって変わることはない」
とも言われていましたが、
まず、外側を変えようとする前に、
外側が〝自分にどのように見えているか〟を観る、
これは、表層部分です。
反応を変えようとする前に、
反応以前に〝何が成立しているか〟を観る。
これが、中層。
そして、言葉の意味を理解しようとする前に、
その言葉が自分の内側の意識に
〝どう作用しているのか〟を観ることで、
深層部分にまで及んでゆく。
ひとつの体験がこうしたプロセスを経て
表層、中層、深層にまで及び、
構造そのものに作用できる働きが
自分の中に育っていくことによって、
内側にある〝意識〟そのものが
外側の世界をつくりだしていることが
次第に実感できるようになることでしょう。
こんなふうに、自分の実体験を通して、
自分の世界の生成過程に気づくことによって、
たとえ小さな気づきであっても
日々丁寧に積み重ねていくことによって
人は自分の望むように
変わっていけるのだとおもいます。
そしてこのスタンスは、
日々どう〝問い〟を立てるかに深く関わり、
寺子屋塾で大切にしている学び方
〝セルフラーニング〟の本質とも、
深く重なり合うものだと感じました。
学びとは、外から与えられた正解を
覚えることでも
問題を正しく解けるようになることでもありません。
自分の内側で、世界がどのように
立ち上がっているのかに気づくことです。
その気づきが日常の中で起きたとき、
その学びは、そのまま日常へと戻ってきます。
だから、非日常的な学びよりも、
日常生活そのものが、学びの場になることが
大切なのではないかと、改めて感じました。
この続きはまた明日に!(^^)/


