默而識之、學而不厭(『論語』述而第七の02 No.149)
2024/05/20
この記事が今月12回目の投稿になるんですが、
今日も昨日に続いて
論語499章1日1章読解から。
これまで主に〝学習〟というテーマの
周辺に関連する章句を読んでいます。
・不曰如之何如之何者(『論語』衛霊公第十五の15 No.394)
・學如不及、猶恐失之(『論語』泰伯第八の17 No.201)
・性相近也、習相遠也(『論語』陽貨第十七の02 No.436)
・我未見好仁者惡不仁者(『論語』里仁第四の04 No.072)
・子貢問君子、子曰、先行其言(『論語』為政第二の13 No.029)
・中人以上可以語上也(『論語』雍也第六の19 No.138)
・子所雅言、詩書執禮(『論語』述而第七の17 No.164)
・質勝文則野、文勝質則史(『論語』雍也第六の16 No.135)
・述而不作、信而好古(『論語』述而第七の01 No.148)
今日は、昨日紹介した章の次に位置していて、
孔子が理想と考える教育者像を
自分の特質と重ねつつ穏やかに述懐している
述而第七の02番(通し番号149)を。
(引用ここから)
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【述而・第七】149-7-2
[要旨(大意)]
孔子が理想と考える教育者像について穏やかに述懐している章。
[白文]
子曰、黙而識之、学而不厭、誨人不倦、何有於我哉。
[訓読文]
子曰ク、黙シテ之ヲ識シ、学ンデ厭ハズ、人ヲ誨ヘテ倦マズ、我ニ於イテ何カ有ラン。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、黙(もく)シテ之(これ)ヲ識(しる)シ、学(まな)ンデ厭(いと)ハズ、人(ひと)ヲ誨(おし)ヘテ倦(う)マズ、何(なん)ゾ我(われ)ニ有(あ)ランヤ。
[ひらがな素読文]
しいわく、もくしてこれをしるし、まなんでいとわず、ひとをおしえてうまず、なんぞわれにあらんや。
[口語訳文1(逐語訳)]
先生が言われた。文句を付けず過去の文化をよく書き残し、学んで嫌がらず、人を教えて飽きない。こんな事は私にとって、何でもない。
[口語訳文2(従来訳)]
先師がいわれた。――
「沈默のうちに心に銘記する、あくことなく学ぶ、そして倦むことなく人を導く。それだけは私に出来る。そして私に出来るのは、ただそれだけだ。」(下村湖人『現代訳 論語』)
[口語訳文3(井上の意訳)]
先生(先生)が言われた。「黙って物事を記憶し、学ぶことを厭わず、人を教えて面倒におもったことがない。わたしにできるのはこれぐらいのことでしかないのだから。」
[語釈]
黙:黙々と、沈黙のうちに。
識:知る、理解する。また「しるす」と読み「記憶する」と解釈する説もある。
黙而識之:口に出さずに心のうちに留め置くこと。
学而不厭:学び求めて途中で嫌になったりしない。
誨人不倦:人に教えて飽きたりしない。「誨」は「教」に同じ。
何有於我:「何有」は「なんぞ~あらん」「いずれか~あらん」とも読んで、「これ以外何が私にあろうか、何もない」の意。この語は「子罕第九の15(通し番号220)にも見える。
哉:「や」と読み、「~か」と訳す。疑問の意を示す。
[井上のコメント]
この章は、平易な言葉が続いて読みやすいのですが、とくに最後の「何有於我哉」の解釈で、この言葉を孔子が自信をもって述べているのか、謙虚に述べているのかという点などで、微妙な違いがあるようです。ただ、わたしは井上の意訳文と要旨に記したとおり、謙虚な姿勢で述べたものと解釈しましたが、あまり細かいところにとらわれすぎず、全体を大きくとらえることが大事だとおもいました。
たとえば、古注のなかで鄭玄は、「なぜわたしにだけこうした行いがあるのか。こんなことは誰にでもできることなのに、わたしだけが得意になっているのはおかしい。」と解釈し、これには無理があるという意見が多いようですが、わたしは面白いとおもいます。
また、荻生徂徠は、「黙而識之」だから「学而不厭」であり、「学而不厭」だから「誨人不倦」であると三者が因果をなしてつぎつぎに生まれるので、まったく困難はないと解釈し、これもまた一理あるように感じました。もし、徂徠の説にわたしの解釈を加えるとするなら、「黙而識之」の之とは、孔子の時代ではおそらく礼楽のことでしょうから、これを今日的に言うとスポーツや芸事における基礎練習につなげて考えることも、けっして突飛な発想ではないようにおもうからです。
つまり、イチロー選手であれば、黙ってバットの素振りを日々繰り返すことであり、陶芸家であれば、「土こね3年」というように毎日だまって粘土をこねることであり、茶道のお手前であれば、それを日々繰り返し練習することであり———そうしたことは、身体が自然に覚えてくれるし、そうした学習には終わりがなく、もうこれでいいということがないから飽きることがなく、また、自分が実践して自分が身につけたことだけを人に教えるのだから、そのことを面倒だと感じることなどあり得ない、という感じでしょうか。
いずれにしても、孔子は自らが理想と考える教育者像を、理屈として唱えるのでなく、門人たちへの教育を実践することで具現化していたのではないでしょうか。(2019.5.30記す)
●論語499章1日1章読解 過去の投稿記事一覧
【為政・第二】020-2-04 吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑
【八佾・第三】063-3-23 子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也
【里仁・第四】073-4-07 人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣
【里仁・第四】076-4-19 君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比
【里仁・第四】077-4-11 君子懐德、小人懷土、君子懷刑、小人懐惠
【里仁・第四】084-4-18 事父母幾諌、見志不從、又敬不違、勞而不怨
【雍也・第六】129-6-10 冉求曰、非不説子之道、力不足也
【雍也・第六】136-6-17 人之生也直、罔之生也、幸而免
【雍也・第六】138-6-19 中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也
【雍也・第六】146-6-27 中庸之爲德也
【雍也・第六】147-6-28 子貢曰、如能博施於民、而能済濟衆、何如
【述而・第七】148-7-01 述而不作、信而好古、竊比於我老彭
【述而・第七】163-7-16 如我數年、五十以學、易可以無大過矣
【述而・第七】170-7-23 二三子以我爲隠乎、吾無隠乎爾
【子罕・第九】215-9-10 顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前
【子罕・第九】228-9-23 法語之言、能無從乎、改之爲貴
【子罕・第九】234&235-9-29&30 可與共學、未可與適道、可與適道
【顔淵・第十二】279-12-01 顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁
【子路・第十三】323-13-21 不得中行而與之、必也狂狷乎
【子路・第十三】324-13-22 南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫
【子路・第十三】325-13-23 君子和而不同、小人同而不和
【子路・第十三】328-13-26 君子泰而不驕、小人驕而不泰
【憲問・第十四】337-14-05 有德者必有言、有言者不必有德
【衛霊公・第十五】381-15-02 賜也、女以予爲多學而識之者與
【衛霊公・第十五】384-15-05 子張問行、子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣
【衛霊公・第十五】396-15-17 君子義以爲質、禮以行之、孫以出之、信以成之
【季氏・第十六】429-16-09 生而知之者、上也、學而知之者、次也
【陽貨・第十七】443-17-09 小子、何莫學夫詩、詩可以興
【堯曰・第二十】499-20-03 不知命、無以爲君子也、不知禮
●論語読解の参考になる過去投稿記事
・情報洪水の時代をどう生きるか(その6)
・顔回をめぐる問いと諸星大二郎『孔子暗黒伝』のこと
・書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)
・問題解決ツールのコレクターになっていませんか?(つぶやき考現学 No.59)
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