有敎無類(『論語』衛霊公第十五の38 No.417)
2024/05/29
今月は5/8から古典研究カテゴリで、
論語についての記事を続けて投稿しています。
この記事が今月21回目の投稿になるんですが、
途中5/18は、安田登さんの本から
論語について書かれた箇所を引用して紹介し、
また、5/21は、
河村真光さんが書かれた易経の解説本
『易経読本 入門と実践』から
火風鼎の占例として論語に触れた箇所を紹介するなど
・論語と易経のつながりに触れて(5/21日筮で火風鼎を得て)
横道に逸れ、中やすみ的な記事を投稿しました。
基本はわたしが
2019年元旦から2020年5月半ばまで、
継続して行った論語499章1日1章読解から
主に〝学習〟というテーマの
周辺に関連する章句を読んでいます。
・不曰如之何如之何者(『論語』衛霊公第十五の15 No.394)
・學如不及、猶恐失之(『論語』泰伯第八の17 No.201)
・性相近也、習相遠也(『論語』陽貨第十七の02 No.436)
・我未見好仁者惡不仁者(『論語』里仁第四の04 No.072)
・子貢問君子、子曰、先行其言(『論語』為政第二の13 No.029)
・中人以上可以語上也(『論語』雍也第六の19 No.138)
・子所雅言、詩書執禮(『論語』述而第七の17 No.164)
・質勝文則野、文勝質則史(『論語』雍也第六の16 No.135)
・述而不作、信而好古(『論語』述而第七の01 No.148)
・默而識之、學而不厭(『論語』述而第七の02 No.149)
・興於詩、立於禮、成於樂(『論語』泰伯第八の08 No.192)
・知之者、不如好之者、好之者、不如樂之者(『論語』雍也第六の18 No.137)
・吾嘗終日不食、終夜不寢(『論語』衛霊公第十五の30 No.409)
・三年學、不至於穀、不易得也(『論語』泰伯第八の12 No.196)
・君子有九思、視思明、聽思聰、色思溫(『論語』季氏第十六の10 No.430)
さて、本日の記事で取りあげるのは、
孔子が教育を入口にしながら
大局的な人間観を語っている
衛霊公第十五の38番(通し番号417)を。
(引用ここから)
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【衛霊公・第十五】417-15-38
[要旨(大意)]
孔子が人間観を語っている章。
[白文]
子曰、有敎無類。
[訓読文]
子曰ク、敎有ッテ類無シ。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、敎(をしへ)有(あ)ッテ類(るゐ)無(な)シ。
[ひらがな素読文]
しいわく、おしえあってるいなし。
[口語訳文1(逐語訳)]
先生(孔子)が言われた。「教育による区別はあるが、種類による差別はない。」
[口語訳文2(従来訳)]
先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない」(下村湖人『現代訳論語』)
[口語訳文3(意訳)]
教育に違いはあっても、人は生まれついた性質だけで決まるわけではない。つまり、学習如何で良くも悪くもなるので、わたしは自分で善くなろうとする者を手助けするだけだ!
[語釈]
教:教育。
類:種類。「たぐい」と読んでもよい。
[井上のコメント]
日本の江戸時代において、為政者たちが封建主義的な身分制度を維持するために、儒教から生まれた朱子学の、都合の良いところだけを抜き出し利用しようとしてきたことは、しばしば指摘されることですが、本章は、「教育によって教養が身につけられれば、人に格差や身分による差別など存在しなくなる」という教えですから、孔子は人間に生まれながら身分の違いがあるというふうに考えていたわけではないことがわかります。
これまで繰り返し書いてきたことですが、「儒教=孔子の教え」ではなく、孔子の死後、孔子の教えを正しく理解していない門人たちや儒学者達がつくりあげてきたものの集積が儒教となっていると言っても過言ではないでしょうから。本章も孔子自身の言葉であるかどうかは怪しいところもあるのですが、学習次第で如何様にもなると、学習者主体で意訳してみました。もちろん、「教育」と「学習」というのは、近いところにはあっても主体者が異なる概念で、混同しないよう気をつけてはいるつもりですが。
また、本章を読みながら、安冨歩が『生きるための論語』に書いていた「『論語』は学習に基づいた社会秩序という思想を、最も早く、最も明瞭に表現した書物である。」という言葉をおもいだしたので、[参考]のところに該当部分を引用して紹介しておきます。
[参考]
・私の見る限り、この『論語』はこの「学習に基づいた社会秩序」という思想を、最も早く、最も明瞭に表現した書物である。しかし私は、これが孔丘という人物の独創だとは思わない。それは彼自身が繰り返し、自分の思想は、古の聖人の教えそのままだと言っているとおりだと思う。孔丘がそれ以前の聖人と違ったのは、その言語が文字として記録された点である。それも、彼自身が書いたのでなく、彼の弟子やその弟子が書き留めたものである。
人間社会が学習能力によって秩序化されるという思想は、おそらく、人類社会に普遍的に見られ、あらゆる時代のあらゆる場所で知られていることではないかと思う。しかし往々にして人類は、学習過程を停止する誘惑に駆られ、常にそれを忘却する。そして学習過程の停止こそが「規範」であり、その作動は「逸脱」である、という邪説を広めようとしてきた。
そのために「学習」の思想は、発見されては忘れられ、再発見されては忘れられ、という過程を繰り返してきた。論語の思想にしても、ここ二千年くらいは、むしろ学習を停止させる方向で読まれてきた。しかし、それでも古典というものは、いつも生命を回復させる。論語は、繰り返し、新しい生命を吹き込んで、思想を蘇らせてきた。現代の我々はこの思想をまさに必要としているのではないだろうか。
※安冨歩『生きるための論語』第1章 P.28~29より
●論語499章1日1章読解 過去の投稿記事一覧
【為政・第二】020-2-04 吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑
【八佾・第三】063-3-23 子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也
【里仁・第四】072-4-04我未見好仁者惡不仁者(『論語』里仁第四の4 No.72)
【里仁・第四】073-4-07 人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣
【里仁・第四】076-4-19 君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比
【里仁・第四】077-4-11 君子懐德、小人懷土、君子懷刑、小人懐惠
【里仁・第四】084-4-18 事父母幾諌、見志不從、又敬不違、勞而不怨
【雍也・第六】129-6-10 冉求曰、非不説子之道、力不足也
【雍也・第六】136-6-17 人之生也直、罔之生也、幸而免
【雍也・第六】137-6-18 知之者、不如好之者、好之者、不如樂之者
【雍也・第六】138-6-19 中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也
【雍也・第六】146-6-27 中庸之爲德也
【雍也・第六】147-6-28 子貢曰、如能博施於民、而能済濟衆、何如
【述而・第七】148-7-01 述而不作、信而好古、竊比於我老彭
【述而・第七】163-7-16 如我數年、五十以學、易可以無大過矣
【述而・第七】170-7-23 二三子以我爲隠乎、吾無隠乎爾
【子罕・第九】215-9-10 顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前
【子罕・第九】228-9-23 法語之言、能無從乎、改之爲貴
【子罕・第九】234&235-9-29&30 可與共學、未可與適道、可與適道
【顔淵・第十二】279-12-01 顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁
【子路・第十三】323-13-21 不得中行而與之、必也狂狷乎
【子路・第十三】324-13-22 南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫
【子路・第十三】325-13-23 君子和而不同、小人同而不和
【子路・第十三】328-13-26 君子泰而不驕、小人驕而不泰
【憲問・第十四】337-14-05 有德者必有言、有言者不必有德
【衛霊公・第十五】381-15-02 賜也、女以予爲多學而識之者與
【衛霊公・第十五】384-15-05 子張問行、子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣
【衛霊公・第十五】396-15-17 君子義以爲質、禮以行之、孫以出之、信以成之
【衛霊公・第十五】409-15-30 吾嘗終日不食、終夜不寢
【季氏・第十六】429-16-09 生而知之者、上也、學而知之者、次也
【季氏・第十六】430-16-10 君子有九思、視思明、聽思聰、色思溫
【陽貨・第十七】443-17-09 小子、何莫學夫詩、詩可以興
【堯曰・第二十】499-20-03 不知命、無以爲君子也、不知禮
●論語読解の参考になる過去投稿記事
・情報洪水の時代をどう生きるか(その6)
・顔回をめぐる問いと諸星大二郎『孔子暗黒伝』のこと
・書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)
・問題解決ツールのコレクターになっていませんか?(つぶやき考現学 No.59)
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
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