ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
2026/06/26
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までに投稿してきた記事を未読の方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
さて、この連載記事も回を重ね
11回目となったんですが、
一昨日から「〝源(みなもと)〟とは何か?」
というテーマで書いています。
〝ザ・メンタルモデル〟そのものについて
解説されている情報については、
毎回冒頭に挙げている由佐さんの著書2冊を始めに
関連する著作や、
ネット上にもわかりやすい動画等の
コンテンツが少なからずありますので、
関心のある方はそちらをアクセスして下さい。
もちろん、いまは連載中のこれらの記事を
連載が終了した際にすべて読まれたなら、
〝ザ・メンタルモデル〟の全体像がある程度
把握できるようにしたいとは考えているので、
四つの類型それぞれについて
もうすこし詳しく記した記事も
今後に投稿するつもりで準備はしています。
ただ、読書会までまだ3週間以上ありますし、
当初から長い連載になりそうであることも
明言しているので、
いまのこのタイミングでないと書けないことに
フォーカスする姿勢も
大事なことだと感じていることもあり、
「〝源(みなもと)〟とは何か?」というテーマを
もう少し引っ張ってみようかと。
そもそも、わたしの中に長年存在していた
「〝源(みなもと)〟とは何か?」という問いが、
この〝ザ・メンタルモデル〟との出会いを
導いてくれたともおもうので。
……ということで、
本日(その11)投稿記事のメインコンテンツは、
冒頭の写真に示したとおり、
J.クリシュナムルティの書いた文章なんですが、
まず、「なぜクリシュナジなのか?」から。
この寺子屋塾ブログでは、
過去に投稿した記事で何度も触れていることですが
わたし自身、
高校2年生になったばかりの16歳のとき、
学校を1ヶ月以上休まなければいけない様な
厄介な病気を経験したことがありました。
そういう体験がきっかけとなり、
「身体を作っている〝源〟は何か?」という問いと
かれこれ50年以上にわたって
向き合ってきたようにおもいます。
よって、わたしにとってはこんにちまで、
〝いのち〟というテーマについても
考える機会は少なくなかったし、
言うなれば、このような「源を問う」
「源から生きる」という姿勢が、
これまでのわたしの人生を形づくってきた
主軸としてあったようにも感じられるからです。
という記事にも書いたことなんですが、
20代前半から易経に触れるようになったのも
食べ物と身体の関係や、
東洋医学に対する関心がそもそもの発端でした。
中国で成立したのが
4000年前とも5000年前とも言われる
易経について学ぶということは、まさに、
「〝源〟から生きるとはどういうことか?」という
問いについて生活の中で日々考え、
応えていく実践でもあったように感じているので。
改めて、寺子屋塾で提供している学習ツールを
一つひとつ見渡してみると、
そのほとんどが「教育」「学習」というテーマの
〝源〟を意識していることに気づかされます。
たとえば、らくだメソッドのシステムは、
学び方について学ぶことや
何から先に学べばよいか、
学ぶことの土台は何が形づくるのかなど
学ぶことの〝源〟に何があるか
学ぶことの本質が考慮された教材と実感しています。
また、インタビューゲームについては、
「鉱脈を探るように聴く」というたとえで
話すことがあるんですが、
結果として、相互に相手の〝源〟に
突き当たるようなコミュニケーションが
意図せず生まれることがしばしばでした。
未来デザイン考程は、
最初にあるテーマ設定や理念設定のステップで、
「いま自分の意識はどこに向いているのか?」
「そもそも本心としてどうしたいのか?」
という自分の〝源〟を明らかにしようとする
問いと向き合う姿勢を大切にしています。
つまり、30年以上にわたって実践してきたからこそ
実感できるようになったことではありますが、
寺子屋塾の教室は
わたし自身にとっては〝源から生きる姿勢〟の
実践道場とも言えるものです。
(その3)の記事で紹介した
TEDでの由佐さんのトーク内容に
「わたしたちの内側の世界が外側を創っている」
というフレーズがありました。
わたし自身、
「内側の世界が外側を創っている」
という〝考え〟に触れたのは、
由佐さんの〝ザ・メンタルモデル〟が
初めてではなく、結構昔に遡ります。
でも、ほんとうに
「わたしたちの内側の世界が外側を創っている」
かどうかは、わかりません。
それを証明しようとしたところで難しいし、
アタマで考えたところで
答が出せないのはアタリマエのことです。
つまり、何も体験していないのに、
「正しいかどうか?」と問う姿勢は
自分の行動にブレーキをかけているだけで
ただただ何も考えていない状態や
何も知らない〝無知〟状態と
あまり大差ないんだと気づいたわけなんですが。
わたしにとって、
信じることを一切強要しない
クリシュナムルティの考えと出会ったことは、
「正しいかどうか?」と問う姿勢は
それほど大切ではないんだと
考えるようになったきっかけでもありました。
どんなにスバラシイと言われる「考え」でも
そのほとんどはひとつの〝仮説〟にすぎない。
つまり、その「考え」が正しいかと問う前に、
その考えを具体的に〝実践〟してみればいいし、
その考えを自分が生きてみればいいんだと。
これまた、寺子屋塾のポリシーのひとつ
できる、できないを考えず
わからないままで「まず、やってみる!」です。
昨日の記事の終わりに
参考関連記事でリストしておいたんですが、
「わたしたちの内側の世界が外側を創っている」
という考えにわたしが最初に触れたのは
20歳のときで、
J.クリシュナムルティが著した
書物を通じてだったことは次の記事に書いたので、
未読の方はご覧下さい。
・J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)

(引用ここから)
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私たち人間は、何百万年も存在してきたもの途方もなく貪欲で、嫉妬深く、攻撃的で、ひがみっぽく、不安でやけっぱちで、そしてたまに喜びや愛情のほとばしりがあるといった存在です。私たちは憎悪と恐怖、優しさの奇妙な混合物です。私たちは暴力的でもあれば平和的でもあります。外部的には牛車からジェット機への進歩がありました。が、心理的には個人は全く変わっていません。そして世界中の社会の構造は個々人によって生み出されたものです。外部的な社会の構造は、私たちの人間関係がもつ内的な心理構造の結果です。というのも、個人は人の経験と知識、行為全体の結果だからです。私たちめいめいはあらゆる過去の貯蔵庫です。個人は全人類であるところの人間です。人の全歴史は私たち自身の中に書かれているのです。
どうか観察して下さい———あなたが権力、地位、特権、名声、成功その他諸々のもののために 野心をたぎらせながら生きている、その競争的な文化の中で、あなた自身の内と外部にどんなことが実際に起きているかを。あなたがたいそう誇りに思っている業績を、あらゆる種類の関係の中に対立があり、憎悪と敵対、残忍さ、果てしない戦争を生み出す、あなたが生と呼んでいるこの全領野を観察するのです。このフィールド、この生が、私たちの知っているすべてであり、その巨大な生存闘争[全体]を理解することができないので、私たちは自然にそれを恐れ、あらゆる種類の巧みなやり方でそれからの逃避法を見つけ出すのです。そして私たちはまた、未知のものにおびえています———死におびえ、明日の向うにあるものにおびえているのです。だから私たちは既知のものと未知のものの両方を恐れているのです。それが私たちの日々の生活であり、そこには何の希望もないので、あらゆる種類の哲学、理論的なコンセプトは現実にあるものからのたんなる逃避になってしまうのです。
※J.クリシュナムルティ『既知からの自由』第1章より(太字化した箇所は井上による)
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(引用ここまで)
クリシュナムルティの本書については、
版元で絶版になっているので、
入手が難しいのですが、
2年前の9月に第10章「愛」の全文を
そのまま引用して紹介したので、
上の文章を読んで興味を持たれた方は
ご覧になってみてください。
・「統合する」ということ(その11)クリシュナムルティ 『既知からの自由』①
・「統合する」ということ(その12)クリシュナムルティ 『既知からの自由』②
この続きはまた明日に!(^^)/
